ウェスタンロールの恋人(小説)
ウェスタンロールの恋人(小説)
待望のADSLがようやく開通した。
とは言ってはみたものの、例えば『このホームページが見たい』などといった確固たる目的があった訳でもないので、取り立てて早速使うべき用事もない。
しかしせっかく今日を以て開通したというのに、その日に何も使わないというのは何か勿体無いような申し訳ないような心持ちがする。
そこでとりあえず、何でもいいから思いついた言葉を検索フォームに打ち込んでみる事にした。
数秒間天井を見上げた挙げ句、『ゆうじほうあん』と打ち込んでみた。
7940件のヒットがあった。
いきなりすごい数だ。
今更何だがさすがに情報化社会である。
しかしこれではどのページから開いたらいいのやら見当もつかない。
そこで『有事法案』のあとに『とは』と付け足してみた。
28件ヒットした。
その中には『有事って何?』といった週間こどもニュースぐらい分かりやすそうなものから、法案提出までの経緯や背景、各派閥の思惑などがかなり詳しく解説されているサンデープロジェクトレベルのものまで様々含まれていた。
これは辞書代わりとしてかなり使えそうだ。
そういえば…、と前から欲しいと思っていたエレキアコースティックベースのカタログを取り出す。
『SWB-04』と型番を入力してみる。
264件のヒットがあった。
製品情報は勿論の事、オンラインショップが驚く程充実している。
機材を買い揃えるのもこれから楽になりそうだ。
買い過ぎに注意するとしよう。
さて次は−、と…。
本棚の単行本に手を伸ばして適当に一冊引き抜く。
『地獄変…か。…あ、く、た、が、わ…っと』
早速リターンキーを押してみる。
27100件、ヒットした。
驚きだ。
さすがは芥川である。
しばし感心した後で『…待てよ』と思う。
検索フォームの名前を書き代えてみる。
リターンキー。
47600件、ヒットした。
やっぱり。
さすがの芥川も漱石にはかなわないらしい。
それにしても…と、ズラリと並んだページの見出しの群を眺めながら改めて感心する。
次の瞬間ふと芽生えた些細な悪戯心に、ディスプレイに向かってひとりでニヤリとした。
明治の文豪の名前の上に自らの名前をブラインドタッチで素早く上書きすると、すかさずリターンキーを押す。
7件、ヒットした。
ひとつは学部時代に所属していた研究室の卒業論文の要旨集のページだった。
大学在学中に入っていた体操部の書き込み掲示板の残骸もあった。
そして残りは全て高校時代に属していた應援團の資料をまとめたページにリンクしていた。
そこでは應援團に関するあらゆる資料が自由に閲覧できるようになっているらしく、その中には自分の事について記されている校内新聞や、自分自身が遠い昔に寄稿した記憶のある文章なども含まれていて、御丁寧に『重要』とか『超重要』といった刻印までされている。
自分自身の知らないところでちょっとは歴史に名を馳せた人物として扱われていたのかもしれない、そう思うとまんざらではない気分ではある。
開通一日目にしてかなり楽しめた事にすでに十分満足していた。
そろそろ眠るとしよう、そう思い、ウィンドウを閉じようとして『終了』の文字に向かってディスプレイ上を滑っていたカーソルが、何かを思い出したように突然止まった。
キーは無意識に押されていた。
文字のひとつひとつが愛おしい、懐かしい名前。
忘れられない、あのひとの名前。
検索の欄に書き込まれた短い文字列を前に、何か見てはいけないものを覗こうとしているような気持ちになりためらいながらも、そっと、リターンキーを押した。
1件、ヒットした。
おそるおそる、ページを開いてみた。
それはかなり以前に行われた陸上競技会の成績だった。
彼女は陸上選手だった。
思い出した。
彼女に出会ったばかりの頃、陸上をやっていると聞かされた時、僕は尋ねたのだった。
『種目は?』
『あててみて』
『うーん、…走り高跳び、かな…』
『…あたり!。ウソ!えっ、どうしてわかったの?』
『えっ、いや…跳躍系の選手って綺麗な人が多いって聞くから…』
すぐに後悔した。
当たったのは偶然だったが、本心から思わず出た言葉だった。
しかし褒め言葉としてはあまりにわざとらしすぎる。
口先だけの軽い男だと見られたに違いないと思った。
しかし彼女はそんな僕の心配をよそに、素直に喜んでくれていた。
その無邪気さが新鮮だった。
そういえば彼女は背の低い僕を茶化してよくこんな事を言っていた。
『いつかあなたを私のウェスタンロールで飛びこえてみせるわ』
ハッ、として僕は彼女の記録を急いで指でたどった。
その記録は僕の身長には僅かに及んでいなかった。
その後彼女は、あの日の言葉通り僕を飛び越えたんだろうか。
バーを背に、高い空を仰ぎ見ながら、ゆっくりと優雅な軌跡を描く、彼女自慢のウェスタンロールで…。(2003)